日経新聞「あすへの話題」 2015年8月12日

 わが背丈柱にしるし父征きぬ昭和19年われ12歳
父は子煩悩だった。出征の日の朝も、何時ものように姉を背に私を懐にしっかりと抱いたあと家を出た。後、新発田連隊より戦地に向う父と再会を果す。当然もう一度抱きあげてもらえるものと駈け寄る姉と私に父は鉄像のように冷たく無表情だった。・・私達は人垣を離れ誰もいない線路の端にその汽車を待つ。あっ!父が最後尾の貨車のデッキに立ち、大きく手をふりながら何か叫んでいる。姉と私は柵に身を乗り出して精いっぱい叫んだ。「行ってらっしゃあーい!行ってらっしゃあーい!」あの時父は私達母子に何を叫んでいたのだろうか。お互いの声は届かず、貨車は去って行った。十月一日暑い日だった。
 父の生死が分からないまま二年が経ち公報が届く。「昭和19年10月26日・・バシー海峡に於いて戦死す」母は公報を持参された役場の方に両手をつき「このような紙切れ一枚いただく訳にいきません。二年前に差し上げた生身の身体でお返し願いたい」と受け取ろうとしなかった。父の戦死を認めることが出来ない母だった。そして33回忌を迎えるまで陰膳を据えて父の帰りを待ち続けた。」
 私の人生の先輩 小林玲子さんからいただいた手記「父(とと)の海」の一部だ。今年83歳になる彼女はあの10月1日、行進の兵士たちへ「どうか一人も死なないで帰れ」と繰り返す異様な老人の姿が忘れられないという。「激励の日ノ丸の旗が翻るなかその異様さは、自ら戦争の悲惨さを体験した軍人ならではの心の叫びだったと今になって思う」と。戦後70年となる8月15日が間もなくやって来る。
 この日私は生まれ、両親は戦争のない平和な時代を生きて欲しいと和子と名付けてくれた。


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